池袋で声をかけられて

昨日、池袋で声をかけられた。

「雑誌の撮影なんですけどお時間ありますか?」

気が付くと私は反射的に「ごめんなさい」と言っていた。そして慌てて、「急いでるので」と付け加えた。

 

そういう人びとは休日の雑踏の中、一日で何人の人に声をかけるのだろうか。

相当な人数に断られるだろうから、かなりレベルを落として声をかけているに違いない。と言い聞かせながら、内心の焦りを隠してポーカーフェイスで立ち去った。

 

それはほんの5秒足らずの出来事だったが、どこか後をひくようなモヤモヤが心の中にあったのでずっとその正体を探っていた。

 

もちろん、光栄なことだとは思う。

その人が多くの女性に声をかけていたとはいえ、人ごみの中で自分を選んで声をかけてくれたことは嬉しかった。だけど、何か引っかかるものがあった。

 

そして、JR池袋駅の改札を出たあたりでその正体を見つけた。

私は過去に、いくつかの場面で同じような感情になっていたことを思いだした。

 

例えばスポーツ番組で、野球の話をするおじさんたちの中に一人だけいる女子アナウンサー。番組ではほとんど話さないのに、CMに入るまでの短い時間や、番組の初めには足から顔にかけて全身をアップで映すカットがあった。

 

そして、男友達との会話の中で。どんな人が好きか?という話になり、「可愛い子」という話題になった時だった。その時その人が何を言ったのかも鮮明に覚えている。

「性格は変えられるけど、顔は変えられない」

 

 

別にそのスポーツ番組や、男友達は誰かを侮辱したわけでは無い。

そして特に女性蔑視の発言や行動をしたわけでもない。見た目について何かを言うことは悪いことではないし、人間は認知の8割以上を視覚に頼っているという事実がある上で見た目を全く無視しろというのは無理に近い。

 

だけど、男性・女性に関わらず人の見た目に関してのみ述べることに私がもやもやを感じてしまうのには理由があった。

以前私は「四十歳、未婚出産」という本を読んだ。(Amazon CAPTCHA

そこには、ある程度年を重ねた女性に対しての差別的な発言など、読んでいて辛くなる内容が多々あった。(読後は幸せな気持ちになります。約3時間ぶっつづけで読了したくらい、面白い本でした。)

 

それから自分は、自分から若さや、(ほぼ無いに等しいが)美しさというものを除いた時に何が価値になるのだろうか。ということを時折考えるようになった。

 

それを考えた時に、人間の若さや美しさなどについてのみ、価値を見出すことは「その人」ではなく「その人の今」についてだけ焦点を当てている見方だと感じるようになった。もちろんモデルや俳優、女子アナなどが見た目も見られている事に関しては、仕事なので致し方ないとは思う。だけど、友達や恋人など人と個人的に関わる際にそれだけを見て判断することは少し違うのかなと思ってしまう。

 

それは、その人が「若かったら」好き。「可愛い時は」好き。ということになるから。

 

もちろん自分も、人を見て「可愛い!」「かっこいい!」と思うことは多々あるし、芸能人で誰がかっこいいかなどの話題で盛り上がることもある。

だけど、「その人」を見るときに、目で見えるものだけで判断をしないように気を付けなければと思った。

 

そして、自分に関しても、営業という職種に就く可能性が高いため、見た目に気を遣うのは大切なことと認識しつつも、常に内面の素敵な人になろうと思うのだった。

見た目はお金をかけてしか磨けないが、内面は稼ぎながら磨いていくことができる。

若くてお金が無いからこそ、内面を磨いていこうと思った。

 

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忙しい=充実してる症候群にかかってはいないだろうか。

スケジュール帳が埋まっていたり、日々忙しく活動していると、疲れるけれども充実する感覚がある。

そうやって、毎日誰かに会って何かをして過ごしていると、世界とつながれているような、社会に必要とされているような、承認欲求が満たされているように感じる。

逆に、誰とも会わず、特に何かに没頭するでもなく過ごす時間があると、時々どうしようもない不安が心から湧き出すことがある。

 

このままでいいのか? みんな私の事を忘れているんじゃないか?

役に立たない奴って思われてはいないだろうか?

 

そんな不安は出てくるが、私は敢えてそういう余白をとることの良さを伝えたいと思う。

 

自分は大学1~3年生の間、ほとんどの期間を忙しく過ごしていた。

スケジュール帳が埋まり、毎月新たな知り合いが増え、様々なイベントに顔を出していた。

 

4年生になって、学校が少なくなり、友達と会う機会も減って、一人で過ごす時間が増えると途端に不安になった。「みんな」とつながっていないことや、「なにか」をしていないことに対しての不安や孤独だった。その時は、自分の知らないところで世界が回っていて、私だけどこかに取り残されたのではないかと思っていた。

 

だけど、そうやって一人で多くの時間を過ごしていくうちに、私が過ごしていた「充実した時間」が私自身や社会に対して大したモノを生み出していないことに気が付いた。

 

私はただ、一人になりたくないがために「だれか」と繋がって、必要な人間になりたくて「なにか」をしていた。その欲求自体は悪いことではないが、自分の場合寂しさや承認欲求を満たすための手段として行ったことに関しては、頑張れなかったし、やることなすこと、自分の意志はあまり無かった。

 

生活に多少なりとも余白を作った方が良いと私が言う理由は、自分がつながる人や何かに対して自分の寂しさや承認欲求を満たすだけの関係をやめ、小さくてもいいから自分が多少なりとも「やってみたい」と思ったことや「変えたい」と思うことを、心の声を聴きながら見つけて行動に移していくための心身の休憩のようなものをとった方が良いと思っているのもあるが、もう一つ伝えたい重要なことがある。

 

私は、毎日を何も考えずただ目の前の事をこなしていくことの恐ろしさを知った。

自分は、特に目標もなく、何となくみんなが喜びそうな道を選んできた。そして、死ぬ気で頑張るわけでもなくただ言われた手法を「作業」のようにこなしていた。

だから、過去の三年間を振り返った時に、身に付けたことがブラインドタッチや会議のファシリテーションのやり方、ちょっとした資料の作り方とか、少しのWord,Excelの知識くらいだったのだ。

 

PDCAサイクルという概念を聞いたことはあるだろうか。ほとんどの人はあると思う。

Plan Do Check Actionの略で、物事を改善していく試行錯誤のサイクルのようなものだと自分は認識している。

 

私は、小さい毎日の経験レベルでの試行錯誤は行っていた。こういうミーティングの進め方がダメだったから、次はこうやってみよう。資料の改行のしかた、この人のものが見やすかったから真似してみよう。など。それは無意識で、経験を重ねていくうちに自然にできる範囲の「改善」だった。

 

自分は、大きな部分でPDCAを回せていなかった。

与えられた手法の中で、仕事を最大限効率化しようとはしていたが、手法自体を最良のものにする努力をしていなかった。また、取り組む事そのものを選ぶなど目先では無い大きな部分で考えていなかったのだ。忙しいとなおさら、目の前の仕事をこなすのに夢中になり、手法を改善したり、本当にそれをする必要があるのかどうかについても考える余裕がなくなってしまう。

広い視野を持って考えることは、一般的な言葉で言うと、視座が高い・低いという言葉に収束するだろう。

 

そして、新人や学生はまだそんなこと考えなくてもいいという人もいるかもしれない。だけど、自分が今いる組織についてそのような視座を持って積極的に考えることで、(もちろん新人なので会社の経営そのものに役立てられる可能性は低いだろうが)自分の中での仕事の定義の捉えなおせたり、その物事をやる理由を明確にできたりすると思うのだ。組織の為だけでなく、自分の人生の時間の使い方を考えるために大きなPDCAを回すこともできると思う。

疑問を持ったり、考えてみたりしない限り、「自分の考え」や「すすみたい方向」が決まるはずはない。

 

だから、時々立ち止まって、なぜこれをやるのか? 違う方法でできないか? そもそもやらなくてもいいのではないか? など様々な疑問について考えてみようと思う。

ただ、考えてばかりなのも禁物だ。行動しなければアウトプットは皆無だからだ。

言われたことはよくわからずともまずはやってみる俊敏性と、視野の広さのさじ加減を今後の一年では探っていこうと思う。

 

そして、社会人1年目で多忙を極めているであろう自分にこの文章を読んでほしいと思う。  半年後の自分へ。半年前の自分より。

隠れ怖がりさん

人はだれしも、知られたくないことの一つや二つ、あるだろう。

自己開示をして相手に傷つけられることは怖い。

それが近しい人ならなおさらだ。

 

私は「隠れ怖がり」だったことが最近発覚した。

初対面の人とは割と抵抗なく話せるし、友達と話してても普通にたくさん笑いながら話すことはできる。私を外から見て、「あいつ、まじでコミュ障だわ」って思う人はそんなに多くないと思う。(と、自分では信じているけども笑)

自分ではわりと、あけっぴろげに自由に生きていると思っていた。

 

だけど、最近気づいた。

私はとてもコミュ障だし、他人に傷つけられることをとても怖がる。

だからいつも、相手が何を考えているのか、どういう考えを持っているのかを無意識に見ていて、相手の考えに同調しようとしているのかもしれない。

 

「普通それしなくない?」とか「変なの」など相手が無意識に、悪気なく発する言葉をとても恐れていて、相手の考えがわからないと発言するのをためらう。だから、後出しじゃんけんのように意見を述べるところがある。

 

自分は何を考えているのかを表情や言葉で相手に伝えるのがとても苦手だ。自分の好きなこととか、どう感じたか、とか。何を考えているのかとても分かりやすければ、きっと相手は勝手に「こいつ、そういえばこういうやつだったわ」と解釈してくれるだろう。だけど、自分は自分を小出しにしていくのが苦手で、気づいた時には相手が思っている自分像と自分の思う自分像が違くなっているのを感じる。

その状態で、自分の考えを述べるのがとても怖いのだ。

 

例えば、以前から私は天狼院書店という会社のライティングゼミを受けていた。

学生がぽんと払うには少し高い金額だし、自分が始めた理由も「なんかこれやりたいって思ったから」くらいにしか言語化できなかったので、しばらくの間誰にも言えなかった。今まで文章書くのが好きだとか言ってないし、ブログとかもそこまで更新してなかったし。その講座は8月から受けていたのに今になってようやく友達に話せたりしている。

(なんとなくとはいいつつも、前から文章を書くのは好きで、見つけた時に「これだ!」と思ったので自分にとって本当に良い選択だったと思っている。だからこそ否定されるのが怖くなる)

 

「そんな高いのよく受けるね」とか、「何でそれ受けてるの?」とか「卒論大丈夫なん」とか、架空の人物が頭の中でいろいろ言うのを聞くと声に出して誰かに言おうという気をなくしてしまうのだ。その頭の声は私がいつか誰かから言われたことで、でもそれを頭の中で作っているのは自分自身だ。

 

いつも私の中には世の中の人が思う「普通の人」の範囲が定められていて、それを超えることをすることはいけないことのように思ってしまっているし、それを他人に伝えることによって否定される、と思っている。

 

そんな時、以前言われた言葉を思いだした。

その人は周りの人の反応を怖がっている自分に対して、

「世界はちひろが思うより優しいところだよ」と言ってくれた。

怖がりすぎて、周りを勝手に敵だと思っていたのだと思う。

 

世界のすべてが優しいわけではないかもしれないけど、ちょっとだけ自分を出してもいいのかなと思った。

頼られない自分を変えるための施策

自分は今までそこそこ、コミュ力があると思っていた。

小学校の時は一人が好きな少女だったが、中学校になり全盛期を迎え、クラスのほとんどのグループの女子たちと話をすることが出来た。

高校になってからは中学よりも自分を隠すようになって、自分のいるグループの人としか話さないようになった。

 

そして全然本音が言えなくなった。

 

何故なのかは分からないが。でも今思うともしかしたら本音を言えていない人達の空間にいたからなのかもしれない。今までは小さいころに無意識にしていた距離の縮め方も高校に入ってから分からなくなった。(おかげで私は一部の仲良かった人以外は二人きりで遊びに行ったことは無かった)

 

笑顔で明るく話すことはできる。幸か不幸かおっちょこちょいだったので、天然扱いされていじられることもそこそこあった。(一般的に天然女子=男子なのだが、私は全然モテなかったw)

 

ただ、自分の心に抱えている暗いものを誰かに見せることは出来なかった。高校の時はまだ子供だったので、調子の悪いときは部活の仲間にあたったりした日もあった。

(今思うと本当に申し訳ない)

 

だけどクラスのみんなとかにはどうしても言えず、高学年になって来るにつれ部活のみんなにもあまり本音や悩みを言えなくなってしまった感じがした。高校の中では成績が良かったため進路に関する悩みを言うことが出来なかったこと、クラスでの人間関係が希薄だったため、人間関係に関する悩みも言えなかったことが大きかったと思う。

 

一人だけ違うことが許されない感じ。

友達といるときは明るくしていないといけない感じ。

自分は何も相手に頼られてないのに自分が頼ってしまっていいのか?という感じ。

 

特に最後が大きかった。自分はいつも人任せで生きていた。

親も多分どちらかというと過保護で、母親は専業主婦で、お金の苦労もせずに生きてきて、姉が切り開いた道をそのままたどっていったような人生だった。

だからそんな自分は何でもかんでも自分がやらなくても誰かがやると思って他人まかせで生きていた。だからそんなやつが頼られるわけはないと思った。

実際今まで誰にも頼られなかった。

 

いろんな感情に妨げられて自分は何も言えないまま卒業した。

大学に入ってからは最初の方は誰にも本音は言えなかった。クラスの友達も仲良く遊ぶだけで悩みなどを打ち明けることは出来なかった。

 

明るく話すのはとても楽しいしその時は全部忘れることができるのだが、友達と別れるとむなしい気持ちに襲われることも多々あった。一人でいるときの自分と友達といるときの自分の乖離が起こした心労なのかなあと今は思う。

 

大学4年になりキャリア支援に入ってから、自分が一番気持ちのいい瞬間を見つけた気がする。誰かに頼られたり、自分と話していることが誰かのためになる瞬間だ。これはとても自分の中で価値のある瞬間だったし発見だった。自分がおせっかいなおばさんにでもなったつもりでその人のキャリアとか今の精神状態などについて心配した。何かあったらいつでもいって。ESと面接練習いつでもやるよ。そんなことばっかり言っていた気がした。今までの人任せで表面だけの自分から少し変われたんじゃないか? と思ってとても嬉しかった。

 

でもなぜか長期的にはやる気が出なかった。

面談やイベントの前後はやる気も上がって動く。実際に学生に会うとこの人達を幸せにしたいと思う。だけどそれ以外の時間で常に学生のキャリアについて考えているわけでは無かった。チームのメンバーは本気で学生のキャリア支援について四六始終考えているような人達だった。でも自分には「ムラ」があった。

自分が頑張ってもこの人たちのためになることはできないと思った。チームの中で価値を発揮できない自分を嫌になった。何回か落ち込んでスイッチを入れなおしてという工程を経たが、なかなか続かなかった。(まじで組織にいると迷惑なパターンの人間です、はい。すみません......笑)

 

やる気がしない。 何故だ?

 

人を「連れてくる」というスタンスでの集客。そしてイベント内容そのものを改善せずにただ集客を強化するというスタイル、キャンセル率を下げるためにとるこまめなLINE。できることもたくさんあるのだろうし、仕方のないことだと思うが、ただただ「集客」「キャンセル率を下げる」ということにしかPDCAを回すことが出来ていないのは嫌だった。新規をとってくることも苦手な自分にとって既存の人脈をあたるしか方法は無かった。対面なら好きだがオンラインでの連絡などをこまめにできるタイプでもない。その場にいないとその人のために何かをしようという気になれないのだ。だから既存の人びと(集客に協力してくれる人を含む)に対しての私の信頼が下がっているような気がしてとてもそれがいたたまれなかった。

↑これは自分の特性を踏まえたうえで、やっていた活動が自分に向いていなかったのでは?という話であってこの活動が無意味だと言っているわけでは決してないです。この活動によって、私たちの仲間によっていい方向に変わった学生沢山いると思ってます。

 

 

自分は現場がある、ことがとても重要だということを最近学んだ。

イベントの運営や、面談などお客さんを目の前にした時のパフォーマンスと、普段家で作業しているときやMTG、プライベートの時間で考え事をしているときなどのパフォーマンス、モチベーションは格段に違った。

 

有無を言わさず現場に出向くことを強いられるような環境に自分はいるべきだと思った。それが私の中で、スナックかゲストハウスの店員だと思った。(直感で思いついただけ笑)

 

自由度(臨機応変度)が高い。(マニュアルの通りやって、ではなく自分で考えて!と言われる)ある程度お客さんと話さなければならない。という二つの条件を元にこの二つの場所にいたらいいのでは?と思うようになった。(直感→論理的思考で後追いするという思考スタイル)

 

最終的にどうなりたいのか?について考えると

 

環境面で、

・とりあえず人と関わってたい

・誰かの役に立つ経験をずっとしてたい

・相手ありきのコミュニケーションをしたい

(一人行動が好きで友達少ないため、これがある環境でないとできなくなっちゃうから)

 

という欲求を満たして

 

・常に人の事を考えて行動できる人間

・話してみたいと思われる人間

・頼りたいと思える人間

 

になりたいと思う。(ざっくりだけど)

 

人と関わり続け、人の役に立てるようにどうしたらいいのか?をその場ベースで考え続けると同時に、PDCAを回し続けることが自分にとっての幸せや夢中につながるのかなあと考えた。

 

心当たりのあるゲストハウスが二つと、スナックが一つ(+伝手薄そうだけど知ってるのが二つ)ある。今までだったら何も考えず応募していたと思うが、自分の時間は有限なのでこれを読んでもらって意見をもらって期限いっぱい考えて結論を出そうと思う。

一晩寝てから考えが変わってたこともあるので笑

回復戦略

先日、ネクラな投稿をしたら、何名もの方々にメッセージをいただき、とても助けられました。まずはこの場を借りてお礼申し上げます。本当にありがとうございます。

 

結論から言うと私は元気です!(数日前まで落ち込んでてもう生きていたくないーとか言ってたので自分でも呆れました笑)

 

ただ寝て治ったのではなく(笑)、様々な皆さまからの言葉や本などのインプットから学びを得られたことで、様々な物事のとらえ方や考え方、行動様式などを変え始めていることで自分は今元気になってます。

備忘録として、そしてもしかしたら今悩んでいる人の役に立つかもしれないという理由で自分がこれから実践していきたいと思っていることを書いてみようと思います。

 

最初にことわっておくのですが、これは自分がお話させていただいた方々や、本や教えて頂いたサイトなど見聞きしたものを今の自分に必要 かどうか判別し、自分用に少し解釈をかえたりしたものなので、世の中的にこれが正しい!医学的根拠に基づいて!これが絶対解!等々ではありません。

ただ単に自分が納得している。っていうだけです。なので、違う考えを持ってたとしてもあくまで村山はこういう風な考え方があっているんだなあ。 ふうん。 っていう感じで捉えて頂ければ幸いです。 とは言いつつ、そこまで人びとの感覚とずれたことを言っているわけでは無いと(自分では)思うのでもし悩んでいたら読んでみてください!

あと、書いてあること全部、自分は出来てるわけではなく、こうするのが合ってるかなと思っていてこれから実践したい!と思っている姿なので自分の今の姿とギャップがあるかもしれませんが何卒ご容赦ください……。

 

そして、目次としてわざわざ書いてないのですが、これらの事の根底にはまず人に話す、ということと、自分よりも人生経験が豊富な方々に相談する、ということがありました。アドバイスを下さった方々、話を聞いて下さった方々、本当にありがとうございます。

 

以下の文章は長くなりそうなので目次作ります笑

 

目次

①「やる気」はなくても「習慣」で行動可能になる

②人の考えを敢えてブラックボックスのままにする

③ネガティブな考えでつらくならないために

④根底にあったコンプレックスと矛盾

(④に関してはどこかから得たノウハウというよりかは、皆様とお話などして得た情報を元に自分を振り返った結果出てきたものを体験として書いてます。)

 

 

 

①「やる気」はなくても「習慣」で行動可能になる

まずこの習慣に取り組みたい、と思ったのには理由があって、自分自身がかなり落胆していたのは理想とする自分と現実の努力できない自分のギャップだったからです。そのため、行動を続ける力を手に入れればそのネガティブな考えから脱せるのではと思い習慣を変えたいと思いました。

 

これは結構聞いたことがあるかもしれません。勉強する習慣をつけよう!とか生活習慣を整えよう!とか。

ただ、私がここで伝えたいのは生活習慣を整えることの大切さでも、毎日こつこつ頑張ることの大切さでもなく、なるべく「努力・やる気・根性」を必要としないでうまくいく方法を考えることの大切さです。

 

大学に入ってから、「やる気」のムラに苦しめられました。何でもやる気になって取り組める時期と、何にもやる気の大きない時期を繰り返し、どうしたらモチベーションって出てくるのかなあとひたすら考えていました。

しかし、やる気、というものは常に持っておける人の方が珍しく、多分その人はとても自信家か、既に実績がある人だと思います。自分は残念ながらどちらにも一ミリもあてはまらないので、「やる気」が無くてもやり続けて結果につなげる方法を探すしかないと思いました。

 

そこで思い出したのは受験勉強のことです。結果は出せてはいないので成功とは言えなかったのですが、そのプロセスにヒントはありました。その当時、一日10時間以上勉強していたにも関わらず勉強は苦ではありませんでした。やる気がなくなったことも、少なくとも最後の一年間では無かったように記憶しています。

やりつづけて必ず結果が出るとは限らないと思いますが、結果を出すにはとにかくやりつづけるしかないと思います。(うまい勉強の方法、みたいな話はここでは一旦置いて、量の話をします。)

やりつづける→うまくいってくる→やる気 の順に生まれてくると思うのでまず、続けてみることが重要だとおもいました。

 

受験の時は、5時に起きて二時間勉強して、学校。授業が終わって6時ごろまで勉強し、7時に帰宅、8時30分にご飯。11時まで勉強。寝る。みたいなライフスタイルが確立していました。

(確立するまでが大変だったのかもしれませんが、こうなってからは自然と出来るようになっていた気がします。もちろん親の多大なる助けがあってこそ確立できていたので一人暮らしだと事情は変わってくると思います。)やる気によって勉強を始めるライフスタイルではなく、時間が来たから始める、というライフスタイルでした。これのお陰でそこまで「やる気」に満ち溢れていないときでも、勉強を続けることが出来ました。

 

ですが、一つここで壁が立ちはだかります。「確立」できないことです笑

上記に書いたような時期は習慣のお陰で何とか頑張れていたのですが、自分はとっても続けるのが苦手です。日記も三日坊主、運動も続かない、朝起きよう!と思っても一日坊主だった時もありました。

そこで役に立つのが、以前インターネット上の記事で見た「スモールステップ論」です。(出典覚えてなくてごめんなさい)

今は計画段階なのですが、起床から就寝までの時間を少しずつ調整していこうという計画を一か月のスパンで考えました。(睡眠はもちろんですが、食事や勉強、作業の時間なども考慮に入れています。)

 

最初の日は7時に目覚める(Get up ではなくwake up)という目標を立てました。つまりベッドから起きなくてもいいから、目覚めろよ。ってことです笑

最初から理想を高く掲げすぎると完璧主義の人などは特に、ギャップに落ち込んでしまい継続が困難になります。なのでちょーっとずつ高くしてくのがよいのかな、というのを学びました!

こんな感じでスモールステップで意識せずとも、やる気が出てこなくとも、行動できるような習慣を作っていきたいと思います。

 

 

②人の考えを敢えてブラックボックスのままにする

よくネガティブに考えてしまったりする人に多いと思うのですが、どうしてこの人はこういうことを言うのだろうか?というのをよく考えてしまうと思います。

他人の気持ちを考えれば考えるほど悪い方向にしかいかなくなり、他の人からみたら大げさな被害妄想くらいに悪くとらえてしまう時もありました。そしてネガティブに考えてしまう自分に対しまた落ち込むというループを繰り返してました。笑

 

これをやってしまう理由として、相手の発言の意図を知って的確に対処し、自分を守らなければ!という心理が働いていたのだと思います。その時々で目的は違ったかもしれませんが、相手に対して弁解をするために自分の中で延々と考えていたのだと思います。

 

相手の気持ちは相手にしか分からない。という当たり前のことを受け入れ、これはもしかして自分に対しての当てつけなのでは……? と延々考えるのではなく、相手がどう思っているのかはその本人にしかわからないことだから考えるだけ無駄! と割り切ることも重要だなと思いました。

 

③ネガティブな考えでつらくならないために

自分がここまで素早く回復のために頑張ろうと思えたのは、自分の友人が教えてくれた情報のお陰でした。物事の認知の仕方に対するアプローチで、知っていらっしゃる方も多いと思いますが「認知療法」というものです。(本来は医師の指導のもと行うものらしいので、あくまで紹介にとどめておきます!)

 

自分の場合、先ほどのように、人の気持ちを事細かに想像してしまうということもそうですが、何かしらの出来事の起こりうる悪い事態をすぐに想像してしまうということが、辛さの原因でした。

今回のように文章を書いていても、誰かに「お前みたいなやつが言うことなんて誰が信じるんだよ。知ったかぶりしてんじゃねえよ。」とか「病んでるアピール乙」みたいなことを言われるのでは? と思って若干緊張しながら書いてます。笑

 

でも、それらは心の中で勝手に想像している、「自動思考」に過ぎないということに気づかせてくれました。

自動思考とは、何らかのストレスの出来事があった時、不快な感情と共に、パッと頭に浮かんでくる考えやイメージのこと(ハートフルカウンセラー学院HPより)です。

認知行動療法では、ストレスな出来事と感情、その時の自動思考を特定し、楽になれるような新しい別の考えを導き出していきます。(ハートフルカウンセラー学院HPより)

 

だから事実ではない事柄において想像の中で悩んだりすることを少しずつやめていこうと思えるようになっていて、ブログを書いていて先ほどみたいな考えが出てきても以下のURLに載っているような方法で考え方をより楽な方向に変えていけるようになってきてると思います。

認知(行動)療法とは? | こころのスキルアップ・トレーニング

 

 ④根底にあったコンプレックスと矛盾

これは自分の人生を振り返ってどういうとこにコンプレックスと矛盾があって問題を引き起こしてたのかなあと考えたときの記録です。最後まで読んでも特に情報の紹介とかは無いです笑

 

もともと、どういうときに自分に自信を無くし、憎んでしまうのかということを考えた時に、人と深い関係を結べないと実感したときだなと思いました。

具体的には、自分の知り合い同士が仲良くしていて、自分とその二人との関係性はきっとその二人同士の関係性よりも希薄なんだろうなと思ったときに発動します。

 

みんなから必要とされてない……。 とか、嫌われてるのかな? とか。

いなくても誰も困らないよな、とか。

 

そういうことを考えた時に、じゃあその人たちと仲良くすればいいのでは?と思うのですが、自分の素を出して拒絶されたら怖い、汚い部分を見せたくないという思いから薄いオブラートを被ったまま人と会話します。

その結果素でいられないことが苦しくなって、人と関わるのが疲れます。実際、自分が他人と会話しているときに自分の状態を観察してみると、とても力んでいます。どんなにリラックスしていると思っても、危ない、と思ったときに一気に力がはいります。それは自分の汚さが暴かれることであったり、比べて出来ないことが明るみに出てしまうことであったりいろいろです。

なので人と関わることを遠ざけるようになります。

 

だけど人が仲良くしているのを見ると羨ましくなるので、相当な矛盾を抱えて生きていたのだな、と思います。 私がこれに対してこれから取ろうと考えている対策は、「殻を破っても怖くない」ということを自分に気づかせることです。

 

なかなか難しいことだと思うのですが、私は二つの道筋を立てることにしました。

 

〇チームとして結果を出すことに注力する。

今までの学校のコミュニティではただみんなと楽しく過ごすことがそのコミュニティの目的であったので、嫌われたくないという心理が働いていました。

結果とかそんなの気にせず仲良く過ごす友達は必要ですが、これからは主に会社や、今ならば学生団体などでは結果を出すことが求められます。

 

これを利用して、自分は嫌われてもいい。チームで結果を出すことに貢献すれば自分はその中で認められる。というモチベーションのすり替えを行いたいと思います。

これをすることで、オブラートに包まれたまま会話するよりも、そのまま意見を言った方がチームのためになるので、殻を破ることに抵抗がなくなってくるのではないかと思います。(出来ていない時も、自分をごまかすのではなくそのまま仲間に報告し、応援を要請した方がチームとして+になるので出来ないところや汚点もさらけ出せるのでは?と考えてます。ちょっと安直ですが。)

 

〇自分自身の特性を理解する。

子どものころかなりの変人だった私は、周りの大人や友人に怒られたりあきれられたりしていくうちに、人のマネをしてでしか行動していけないようになってしまいました。

自分=間違った存在。誰かがやっている=正しいこと。してもいいこと。

という二つの等式が完璧になりたっていて、自分で判断して行動することがとても難しくなっていました。

 

しかし、今の自分の持つものは変わらないのだから、違いは違いであって間違いではないよ!ということを心に留め置いて自分の特性を認めることから始まるのかなと思います。

 

組織などに所属してもそこまで目立つリーダータイプでもなく、かといって陰でメンバーを助ける包容力のある人材でもなく、中途半端で何も役に立っていないように思える自分がとても嫌でした。でも、自分は人を観察するのが好きで、何かの拍子で軽くいったことでも「良く気付いたね!」と言われることも何回かありました。

そして、人の特徴とかを見るときに、好き嫌いではなくこういうものなのだ。という風に広い範囲の物事を受容しようとする力はあると思います。なので中学のころなどは(今は信じられないですが)クラスのどの女子のグループにも入れる能力を持ってました。

だからこれからその特性を認めて、典型的なリーダータイプでもないし、包容力もない自分だけども出来ることはある。と思うことで人に気を使いすぎたり、嫌われないように肩に力を入れることもなく誇りを持って人と接することが出来るようにしていきたいと思います。

 

 

以上、とても長くなってしまいましたが自分の今考えていることでした!細かいことを言ったらもう書ききれないくらいあるのでこれでもまとめた方です笑

悩んでいたといっても、私はかなり軽度の悩みだったと思うので、本当に悩まれている方は様々な方に相談してみてください。

上記に書いたことを現実のものにするために日々精進していきます。

人と話すときって、その人を信じることが一番重要だと思う。

基本的に、一人の人を目の前にした時に、その人のすべてを分かることは不可能である。だからこそ、完全には分からない未知のその人を信じることが何よりも重要だと思う。

 

ある時感じた違和感

最近、違和感を感じる出来事があった。

人と話していて、その人と自分の考えが違った時、自分の考えを認めてもらえなかった。それどころか、相手は自分の考えが正しいと思っていて、それをあからさまな形ではないが私に教えようとして、誘導しているように思えた。

 

例えば、話の流れから、生き方や大切にしている考え方の話題になり、(実際の会話とは異なります。フィクションです笑)

自分:

「自分に合ってる考え方は、周りに何と言われようと自由に生きていくことが大切だと思います。多少迷惑をかけることがあっても気にしすぎたりしないようにしています。」

 

相手:

「でも結局、周りの人がいなければ生きていくことは出来ないよね。自分も今まで周りの人に感謝したりすることが出来てなかったけど、最近は自分がいかに支えられていたのか分かりました。」

 

自分:

「仰る通り周りの人に感謝することは大切だと自分も思います。

支えてくれる人への感謝が原動力にもなると思います。周りの人から反対されたり全く迷惑をかけないで生きていく、ということが出来たらそれは理想だと思いますが、それは自分が他の誰とも違う人間である以上、それが出来ない時もあると思っています。

だから自分がやりたいと心の底から思ったことに対して、周りの人が反対したとしても、それを行おうと考えていて、そういう背景があってさっきの意見を言いました。」

 

相手:

「なるほどね…。でもなるべくなら周りの人に賛成されて、迷惑かけない方が良いって思っているんだもんね。そうするために自分は△△をしていたよ。やってみたらいいかもしれないですね。」

 

ここまで読んでみて、違和感を感じた人と、普通じゃない?て思った人がいると思います。自分は違和感を感じました。そこで、普段自分が無意識に人と話すときに気を付けてたことを交えて感じた違和感を紹介したいです。

 

 

相手の意見に違和感を感じたらまず質問。

まず、自分の意見を言った時に相手は開口一番、「周りの人がいなければ生きていくことは出来ない」と持論を言った。

 

最初の時点では私は背景も全て説明していたわけでは無く、自らの経験から結果として大切にしていること、を述べただけなのでもし自分の意見に違和感を感じることがあっても不自然ではない。しかし、今回の場合「周りの人がいなければ生きていくことは出来ない」と相手がいったことによって、相手は意図せずとも、以下の事が自分に伝わってしまった。

 

相手は私のことを背景も聞かずに、周りの人に支えられていることを感謝もせずに自由奔放に生きている人間だと決めつけている。

 

これが分かった途端、あまり話したいと思わなくなってしまった。一般論として、人間は自分の事をダメな奴だと思っている人に対しては自己開示しようとしない。話の聞き方としてよくない。

自分は相手と意見が違うと思った時にどのように会話をしていたか?と考えた時に、自分はまず、質問をしていた。と思う。

私が自分と話している相手だったとしたら、最初の発言の後にこう言う。

「なるほど、やりたいことをやるのが一番大切だと考えているんだね!

自分だったら、周りの人に反対とか迷惑をかけてしまうと、今まで支えてもらった人を裏切ってしまうような気持ちになってしまうかなと思うのだけど、〇〇さんも、何かを選択する時そういうこと考えたりするの?」

 

いったんその人の言葉を受け止める。その上で正しいか、正しくないかは置いといて、自分はこう。あなたはどう?という聞き方をする。そこで、はい、いいえ、のどちらを選んだとしても自分は否定しないという空気を前面に押し出す。(自分はカレーが食べたい、あなたは?くらいの感じのフラットさ)

そうすると、相手は自分の意見を受け止めてもらえたと感じ、自身の考えを素直に話しやすくなると私は考えて今まで無意識に実行していた。

 

 助言は、重ねた同意の上に「意思」が見えた時にのみする。

私は基本的に自分の事をよくわからない人からこうした方が良いよ!と言われることがそんなに好きではない。何故なら自分の事をあまり知らない人が言う助言はすでに検討したが理由があって実行しなかった、代替案をすでに実行している、もはや論点ずれている、みたいな場合も多いからだ。

だから言われるたびに、そんなに考えてないように見えてたのかな、、とか自分が解決したい課題はそれじゃないんだけどな、と思って少し嫌な気持ちになる。今回も、自分の意志とは違い、「反対されず、迷惑をかけないこと」のために必要な助言であった。そもそも自分が抱えている課題では全くなかった。

 

だけど最近はキャリア支援の団体で20卒の人たちと面談をすることも度々あり、あまり話したことのない人にもこうしてみたら?と提案をしなければならない場面も多くなった。そういう時に自分は以下の事を気を付けていたように思う。

 

助言は、同意を重ねた先に「意思」が見えた時にのみする。

 

ということだった。先ほどの例の一番最初の発言だけを見ていうと、自分は「やりたいことをやる!」ことを至上命題として置いていた。

先ほども述べたように質問をたくさんする。その人にとっての「やりたいことをやる!」はどのようなものなのかを明確に掘り出すためだ。

だから、この場合は?この人が反対したら?それをすることでこういう事態が起こることが分かっていたら?というifの質問を沢山投げかけて、そのうえでどういった場合にどういう行動が出来ることがその人にとって望むことなのかを掘り出す。

 

そうして相手の意思をなるべく具体化して相手と自分で共有したうえで、その人の意思が出るのを待つ。ifの質問をしているうちに、「こういう時、このような行動をしてしまうんですよね…。本当はこういう行動したいのに」という風に出てくるときもあるのでその時は、それを解消するにはどうしたらよいのかを聞く。(教えるのではなく)

 

何でそういう風になっちゃうんだろうね?どうしたらいいと考えてるの?

 

そうやって相手から意志とそれを阻む課題解決の案が出てきたときに、その案よりもよりよく課題を解決できるかもしれない方法が自分の中にあったらそれを助言というよりも提案という形で言ってみる。解決策の案が出てこなかった場合も、提案する。

 

その方法だと、こういうことになってしまう可能性もあるから、こういう方法もあるかもね。とか。

出てこなかった場合も、(〇〇さんは気づいてるかもしれないけど、)この状態から抜けられないのは△△っていう風に考えているからなんじゃないかな?この方法で乗り切ることもできるかもね!

 

みたいな感じで言っている気がする。そこで気を付けるのはその提案を受け取らないことも許容する雰囲気をつくることだと思う。選択肢の一つに加えてもらうつもりで言う。もしかしたらその人はそれが出来ない理由があるかもしれないし、一度やったけどダメだったかもしれない。

その人のためを想って強く言うことも関係性と時と場合によっては必要なのかもしれないが少なくともあまり話したことのない人に対して何かを言うときには強制や決めつけなどで人を傷つける場合があるのでこのような言い方をしている。

 

最後に

最近、興味があったので自分の知り合いの方に、自分の考えを引き出すコーチングをしていただいた。(http://www.thecoaches.co.jp/cti/index.html)体験ではあったが、自分の中に答えがあることを信じて質問を繰り返してくださる姿勢を感じ、素直に自分が心から感じたことを答えることができた。

 

その方の学んだコーチングのプログラムはCTIという機関のものなのだが、その根本には「人はもともと創造力と才知にあふれ、欠けるところのない存在である」という人間観が存在する。目の前の人のすべてを理解する事は不可能だが、その人がその人自身の持つ創造力と才知によって思考し行動を起こしていて、それを否定したりむやみに評価する権利は自分にはない。ということを肝に銘じながら人と話していきたいと思った。

凍りのくじらを読んでみた。(※ネタバレは無いですが、文章を書く都合上あらすじとかは書いてます。)

私はこの前読んだ本に救われた。

「凍りのくじら」という本だった。作者が有名なので本屋さんに行った時もかなり目立つところに平積みになっていた。(作者の書いた本が映画化されたものを金曜ロードショーで見たことがあったので覚えていた。)

 

その日私は疲れていた。体調が優れなかったし頭はぼーっとしていて本を集中して読める状態ではなかったかもしれない。でも事情があって、その本屋さんから一冊の本を選ばなくてはならない状況になっていた。

入口で平積みになっている本を買うのは、本屋の店員さんに買わされているようで好きではない。しかしあんまり読みたい本が見当たらなかったので入口で見つける本であればある程度面白い保証はあるだろうと思い、入り口付近を見に行った。

 

そうしたら、『あなたの人生の一冊になる!』というような大げさな帯に身をまとった分厚い文庫本が平積みになっていた。そのころの私はというと、ちょうど何事にもやる気が起きず自己嫌悪になっていた。帯にあった、『嫌いなのは自分』に運命を感じ、見つけて5秒でレジに並んだ。

 

 

結果、その夜のうちに読みほした。

自分と似た主人公だった。心の中でみんなの事を分析して、どのコミュニティに対しても主体性を持てないくせに、寂しくてみんなと関わっていたくなる。思っていることを場の空気を丸く収めたくて、自分を嫌いになってほしくなくて言わずに誤魔化す。現実感が薄くて、常に頭の中で違うことを考えている。最初から共感の嵐だった。

 

そんな主人公が、様々な出来事を経て感情をむき出しにして大切な人とむきあい、周りの人と素で関わることが出来るようになっていた。

 

なんだか生きてるなあって感覚がした。

 

最近ゲド戦記とか、かぐや姫とかのジブリ作品を見て、「生きる」ってなんだろうって考えることが多いのだけれどようやく、最近思ったのは、「人生がいちどきりであることを認め、受け入れたうえで自分の人生をよくするために自らの価値観で最善の選択をし行動をすること」だと思う。自分に嘘ついて、卑下して、っていうのは逃げていることでしかない。「本当の自分」が選択をして行動したら、失敗したときに、うまくいかなかったときに、言い訳できないからだ。

 

こういうような人生を送っているときっと毎日が憂鬱になってきて、そのうち自分の感情も分からなくなってしまうんだと思う。

だからちゃんと前を向いて歩くことが「生きる」ためには必要だと思う。人のために行動するのも結局は自分が嬉しいから。だからすべての行動は人生をよりよくするためのモノ、だと信じている。

 

自分と似た人が主人公になった物語はあまり読んだことがなかったので嬉しかった。物語の中で主人公が聞く言葉が自分を暖かく照らしてくれているように思えた。それと個人的に私は、この作品の中で描かれている場面が好きだった。色やにおい、温度や音などあらゆるものを想像してその中にいるかのように感じることが出来る。

 

是非悩んでいる人は読んでほしいです。あとがきに、「主人公はすぐさま読者の共感を得るタイプではない」と書いてありました(笑)

主人公に共感できない人も楽しめる物語なのではと思います。

 

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